壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別

壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別

最近まで柳田國男さんと柳田邦男さんをごっちゃにしていました(柳田さんてご長寿!とか思ってた)。画一化されたマニュアルどおりのことしかできないネットや機械依存症の人間はおかしいとか、便利になったら、その分何かを失っていることに気づけ、みたいなことを感情論に近いことで、仰ってるようです。根拠があれば説得が増すんだろうけど、ワカモノ嫌いのおじさんがなんか言ってるな、としかとられかない可能性はあります。教育書として読む分はいいのかも。
でも確かに、どこにいても、ずーっとゲームしてる子どもばかりで、あれはちょっと異様だなと思います。
(たぶん、どうでもいいと思うのでたたみます)
私はファミコンもやらせてもらえなかったのでゲーム脳ではないだろうし、大学時代がインターネット過渡期の人間で、ネットがなかったころも経験している上、情報メディアの勉強をしていたので、このメディアの特性は広がりきる前に学びました。なので、ネットはあくまで公共の場で(たとえ自分のブログやHPであっても)、バーチャル世界の弊害や怖さというものを叩き込まれているし、情報検索をする上で万能ではないということを知った上で、少し距離をとって使っています。けど今の10代は物心がついたときから、当たり前にそれが存在しているわけで、それってどうなんだろうというのは非常に興味があります。
今の子にも、ネットは全世界に公開されていて、自分の周りのような均質化された世界ではなく、自分の価値観を超えた人も多く存在していること、ゲームはリセットやクリアできても、現実世界はそんなことではすまないということを使う前に自覚させなくちゃいけないですね。どうであれ、自分の子どもは人の痛みや悲しみを想像し理解できるように、批判する前に自分で創造できるような子に育てたいです。まあ、できてもいないんですけどね。